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三顧の礼とは、三国志の時代、劉備が当時若造に過ぎなかった諸葛亮の元を3度にわたって訪れ、礼を尽くして迎えた故事のことである。
しかし、この三顧の礼、日本人には理解できない裏の意味が存在します。
この三顧の礼ですが、おそらく後世の創作で、たぶんフィクションでしょう。
モデルとなったのは、周の文王が姜子牙(呂尚)を配下にしたときの故事(太公望の語源)に少々手を加えたものでしょう。
さて、この文王の故事、釣りをする(ふりをした)呂尚の隣でじっと待ち、礼節を尽くして賢人を迎えたという、文王を称えているように見えます。確かにそうなのですが、中国で評価されるべきは釣りをしていた(ふりをしていた)呂尚の方なのです。
呂尚はわざと文王を無視していました。それは、礼節云々を見極めるためといった理由ではないのです。自分を売り込むためです。自分が釣りをするふりを続けることによって、文王を待たせるのは失礼と日本人なら考えますが、そこは中国では解釈が違うのです。自分が文王を待たせることによって、文王は釣りの邪魔をせずに礼節を尽くして賢人を招いたと言う噂が広まります。そのため呂尚はそのような行動をわざととったと解釈するのが中国人的考えです。そうすることによって主君の文王の評判も上がり、またそのような行動を取り、主君の評判を上げた自身の評判も上がる、一石二鳥なのです。
小説(フィクション)の場面ですが、三国志における三顧の礼で、昼寝をする諸葛亮の脇で、じっと劉備が待つ場面があります。劉備の舎弟である張飛はそれを見て烈火のごとく怒り、家に火をつけようとするところを劉備にたしなめられる場面は有名です。おそらくこの諸葛亮は狸寝入りです。わざとやっています。そうすることによって、劉備には若造を3度も訪れ、昼寝を妨げることなく礼を尽くして賢人を迎えたと言う評判が立ちます。同時に諸葛亮はこのようにして主君の評判を上げたことが評価されます。
この辺は日本人の感覚では理解できませんが、現代中国において、このような例は今も尚存在しています。