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曹洞宗のお寺で赤穂藩歴代藩主の菩提寺
播磨国赤穂藩
浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺です
正保2年(1645)に創建され
開祖は 赤穂藩祖 浅野長直公だそうです
本堂へ入るとやはり忠臣蔵
花岳寺 御朱印
源氏を殺したのはリア充
時代村と言えば、
・歴史公園えさし藤原の郷
・伊勢・安土桃山文化村→伊勢安土桃山城下街
・日光江戸村
・博物館明治村(愛知県犬山市)
・日本大正村(岐阜県恵那市明智町)
・日本昭和村→ぎふ清流里山公園(岐阜県美濃加茂市)
が有名ですね。(近い将来、「日本平成村」もできるのでしょうか?)
犬山城からはちょっと離れた博物館明治村、明智城がある日本大正村、堂洞城近くのぎふ清流里山公園は、名古屋のアマチュアカメラマンさんが、名古屋のアマチュアモデルさんを連れてロケ撮に行く定番スポットです。
<博物館明治村>
<日本大正村>
<ぎふ清流里山公園(旧・日本昭和村)>
※「宇宙と大地ガールズ」の運営は「宇宙と大地プロジェクト実行委員会」(岐阜新聞と日本一ソフトウェア)で、活動拠点は美濃加茂市ではなく、航空宇宙産業が盛んな岐阜県各務原市です。
──「各務原」って読めますか?
ほとんどの方は「かがみはら」と読みますが、正式には「かかみがはら」です。しかし、駅名は「かがみがはら」、高校名は「かかみはら」で、「4つの読み方がある地名」として有名です。
古代では、鏡作部が住む鏡の生産拠点でしたから、「かがみがはら」が正しいと思います。(「原」(古くは「野」)は「台地」の意味ですので「各務原台地」という言い方は、おかしい。ちなみに『信長公記』には「加賀見野」とある。)
尾張国を制した尾張氏は伊福氏(伊福部)と行動を共にしていました。伊福氏は鋳物師ですから、銅鐸、鏡、鐘、後世では日本刀や陶磁器(瀬戸物)を作ったことでしょう。尾張国三宮・熱田神宮のご神体の草薙剣は、スサノオがヤマタノオロチの体内から取り出したと大和政権によって変えられました(だから『出雲国風土記』には掲載されていません)が、極秘伝では、草薙剣は、伊福氏の本拠地である伊吹山にあった剣で、ヤマタノオロチが守っていたとされています。(日本武尊の死因は草薙剣を奪われた伊福氏の反逆でしょう。)また、尾張国一宮・真清田神社では、「ご祭神(尾張氏の祖・ニギハヤヒ)がヤマタノオロチに乗ってきたので、尾張国は8郡になった」としています。「乗ってきた」ということは、「制御していた」「管理していた」ということであり、尾張国を8郡に分け、8つの頭(8人の郡司)を連れてやってきたことの比喩でしょう。
加治田城(岐阜県加茂郡富加町加治田)や堂洞城(岐阜県加茂郡富加町夕田)は、お城マニアの間では、「反信長の城」「織田信長中濃攻略戦の舞台」として有名です。加治田城主は佐藤忠能→織田方の斎藤利治、堂洞城主は岸信周です。所在地は、可児の明智城と木曽川を挟んで線対称の位置になります。
【参考サイト】富加町「加治田城と堂洞城」
※加治田城主・佐藤家の分家には、明智(恩田)孫十郎直経の家・恩田家があります。
※「本能寺の変」当時、斎藤利治(としはる。織田信長家臣。斎藤道三の末子)は佐藤忠能の養子となって加治田城主となっていましたが、「本能寺の変」の直接的な原因を作ったとされる斎藤利三に「本能寺の変」直後の二条新御所の戦いで討たれました。
斎藤利堯(としたか。斎藤道三の子)は、明智憲三郎氏が明智光秀生誕地と推測された福光郷の領主となっており、「本能寺の変」の時は、岐阜城の留守居役として福光館に入り、その後、岐阜城に入ると、中立の立場をとりました。イエズス会宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスの報告(「1583年2月13日付ルイス・フロイス書簡」)に「岐阜において太子の宮殿が掠奪され、諸侯の一人が城を占領したが、いずれに味方するか発表しなかった」とあるのは斎藤利堯のことでしょう。
「明智光秀生誕地」は、不明ですが、公開されている3系図
①喜多村家伝『明智家譜並びに明智系図』(系図は、『続群書類従』所収「明智系図」、鈴木真年編『鈴木叢書』「明智系図」と全く同じ)
②宮城家伝『明智一族宮城家相伝系図書』(正式名称は『清和源姓美濃国住土岐家随一之連枝明智氏一族宮城家相伝系図書』)
③山岸家伝『明智氏血脈山岸家相伝系図書』(正式名称は『清和源氏姓美濃国住土岐家之一族明智氏血脈山岸家相傅系圖書』)
には、それぞれ、
①享禄元歳戌子3月10日于濃州多羅城誕生。
②享禄元年戊子8月17日、生於石津郡多羅云云。多羅は進士家の居城也。或は生於明智城共云云。母は進士長江加賀右衛門尉信連の女也。名を美佐保と云。伝曰、光秀、実は妹聟・進士山岸勘解由左右門尉信周の次男也。
③享禄元年8月17日、生於可児郡明智城。母は山岸加賀左右門尉信連女也。伝曰、光秀、本来、是、光綱の実子に非ず、甥也。実は、光綱の妹婿・山岸勘解由左右門尉信周の子也。
とあります。
つまり、明智光秀は、明智光綱の養子で、実父は山岸信周、実母は明智光綱の妹・お市の方で、明智光秀生誕地は、「山岸信周がいた場所」になります。多羅城主は土岐島田氏で、城主だという山岸信周なる人物については不明でしたが、山岸氏系図と進士氏系図を見比べて、
──山岸信周=山岸光信
であることが分かり、明智光秀生誕地は、山岸光信の居城・府内城(揖斐郡揖斐川町谷汲府内)だと推測されました。(山岸光信は、明智光秀の家臣として有名です。実父が家臣?)
ところが、先の3系図には、明智光秀生誕地は府内城ではなく、
①多羅城(「多羅城誕生」)
②多羅城とも、明智城とも(「生於石津郡多羅云云。(中略)或は生於明智城共云云」)
③明智城(「生於可児郡明智城」)
とあります。③ではさらに詳しく、実母(明智氏)は、山岸信周と結婚し、慶事で実家(可児郡明智城)に帰っていた時に明智光秀を生んだとありま
すが、肝心の山岸信周の居城については書かれていなかったので探してみると、光綱の妹の項に「女子 賀茂郡蜂屋ノ庄加治田堂洞城主・山岸勘解由左エ門尉信周室にて、市ノ方と云。光秀の実母なり」とありました。②にも「女子 加茂郡蜂屋堂洞城主・進士山岸勘解由左右門尉信周先之室」と光秀の項とは異なる記述がありました。
──山岸信周=堂洞城主・岸信周で、明智光秀は堂洞城で生まれた?
※「賀茂郡蜂屋ノ庄加治田堂洞城主」「加茂郡蜂屋堂洞城主」は、それぞれ、「賀茂郡蜂屋庄加治田の堂洞城主」「加茂郡蜂屋の堂洞城主」でしょうね。堂洞城は加治田城のすぐ近く(加治田城は古城山(東海環状自動車道の川小牧トンネル上)、堂洞城は川浦川を挟んでクレセントバレーカントリークラブ美濃加茂内)にあり、実は加治田城の付城だとか。
まぁ、家譜や系図は参考にはなるけど、盛ってることが多いから、史実だとは・・・。たとえば、①喜多村家伝『明智家譜並びに明智系図』の家譜には、「頼重十一代之正統明智光秀十兵衛尉後号惟任日向守于時享禄元歳戌子三月十日於于濃州多羅城誕生。母武田信虎女也、信玄姉也」(明智光秀(後の惟任日向守)は、土岐氏の嫡流(土岐頼重から数えて11代孫)で、享禄元年3月10日に美濃国多羅城で生まれた。母は武田信虎の娘で、武田信玄の姉である)とあるけど・・・明智光秀が武田信玄の姉の子だとは、信じがたいよ。
【参考記事】
宝賀寿男「明智光秀の出自と系譜」
新小児科医のつぶやき「日曜閑話69」
「源氏」とはどのようなものかがよくわかるムービーいろいろ
川西市まで鉄馬に跨り、遠駆けいたしました。(スクーターでブイ~ンと行ったという意味)
兵庫県川西市多田院多田所町
清和源氏発祥の地
多田神社(ただじんじゃ)(別名 多田院)
御祭神
源 満仲—清和天皇の第六子の貞純親王の子・源経基の嫡男、多田源氏の祖。
源 頼光—満仲の長子
源 頼信—満仲の三男、河内源氏の祖。
源 頼義—頼信の嫡男、河内源氏二代目
源 義家—頼義の長男、通称・八幡太郎。源頼朝の祖先。
因みに、甲斐武田氏(信玄さまとか)は頼義の三男・新羅三郎義光の子孫にあたる。
猪名川に架かる御社橋。
御社橋を渡ると多田神社があります。
説明板に当社廟所が音を発して揺れ動く事が我国史上有名な「多田院鳴動」で、源頼朝公敵追討時より端を発し、足利義昭公まで枚挙にいとまがなく、鳴動ありし時は幕府に注進した。と書かれている。
阪神淡路大震災の2ヶ月ほど前にこの隣町の猪名川町や能勢で「猪名川群発地震」という微震が連発したのは阪神淡路大震災の予兆であったかもしれない。とのことを思い出した。多田神社でも揺れたはずである。幕府には注進しなかったようである。
石段を上がって南大門(県指定)
源氏の家紋である笹竜胆(ささりんどう)は分かるんですが、葵の紋が
そうなんです(どうなんですか?)、この多田神社は天正5年(1577)信長の有岡城攻めの際に織田信澄(信長の甥)の軍勢によって社殿を焼失したんですね。それが江戸時代になって清和源氏を称した徳川家から崇敬され、寛文7年(1667)、将軍徳川家綱によって本殿、拝殿、随神門などが再建されたちゅうことです。徳川様々ちゅうことなんですわ。
因みに、徳川は源氏を称して征夷大将軍に就いたが、源氏というのはでっち上げである。織田信成くんのおじいちゃんが信長の子孫ということにしたように家系図を書き換えたようやね。
わしは源氏なんや~
随神門(重文)
拝殿(重文)
狛犬
狛犬
葵紋の方が目立ってる
まあ徳川さんがいなかったら今見られる多田神社はなかったんやね
本殿(重文)
説明板
控えおろうーの水戸の御老公もおいでになられていた。
御老公の銀杏良く育っています。
徳川恒孝(とくがわつねなり)だれ と思いググってみたら、15代将軍慶喜の曾孫さん。徳川幕府続いてたらこの人も将軍さんやったんやね。
皇室の方々もあり。
すもぅ取りすっぽんぽんで風邪ひかん ← どんとのCMより。
境内摂社、田尻稲荷神社あり。鳥居は三十四基ある。
形石あり。鬼というよりプレデター
六所宮。鎌倉期創建の神社で拝殿は室町後期に再建。
徳川家綱再建の東門
家綱って家光と綱吉に挟まれて影薄いけど、地味に頑張ってます
広い境内を石垣と堀が巡っていて、城郭を思わすような造りになっていました。
東門を撮ってると偶然山車が通った。近くの神社でお祭りしてたようである。
西門も高麗門になってます。
高麗門て調べたら、文禄・慶長の役(1592~1598)の間に造られ始めた門であるらしいもん。藥医門より強度があって屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫がしてあるんやと。
この時はまだ温かった。
ほなまた。
18/10/28
源氏 関連ツイート
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#心を絵文字で表す診断
https://t.co/KCmUtVlJVh
源氏のこと発表されてたけどまだ来年やるのかな…🤔🤔
うちも死んじゃう
叫んじゃうかもw
それなw
2人で放心状態のまま座ってるのが目に見えるね…ww
真剣乱舞祭ちゃんの
「一つの村だけ焼いたら不公平なんで、全部の村でキャンプファイアーしますね!!炭も残るなよ!!!…