転生まとめサイトをさらにまとめてみた
どうも私です☆彡
今日は業(kama)のお話をしていきたい
と思いますヨン☆彡
さて、酒井さんは占い評論家、ということに
なっておりまして、占い評論をするからには
占いに対して超冷静な、妄信するのとは違う
ベクトルの視点をいつも持ち続けていなくちゃな、
と思っているのですが――。
そんな中でも、占星学や占いを研究する上で
どうしても避けられない概念が
「業」(kama)
という概念です☆彡
かつて、占い師がたくさん集まる占い業界の宴会で、
みんななんで占いなんかに興味を持ったのかと
質問したことがありましたが、やはり断トツの理由として
「前世が知りたい」
というのが圧倒的だったんです。とある有名占星術家
の方(たくさん本も出してる)に聞いたら、西洋占星術は、
理論手順だけ理路整然と書いてもダメで、まったく
本が売れなかったが、「前世」 という概念を入れて
前世を占える感受点(惑星)を中心に本を書いたら
爆売れした、と言っていました☆彡
確かに、占星術はそうした 「前世」 を知りたがる人
をひきつける魅力があります。この世に60億の人間
がいようとも、誰一人として同じホロスコープはない。
だからあなた 「だけ」 のかけがえのない人生がわかる
のだ、というのが、占星術のセールストークで、この
文脈はそのまま前世を想起させるからです。
でもまぁ、実際はこの占星術のセールストークは激しく
語弊があり、実のところ同じようなホロスコープの持ち
主などごろごろしています。 分・秒単位のごくごく
些細な差異でもって
「60億人の人間すべてが違うホロスコープである」
と言っているだけで、実際は同じ日に生まれただけでも
ほぼ同じようなホロスコープですし、実際占い館や
イベントで鑑定すると、同級生の女の子同士のグループ
などが鑑定に来るんですが、ほぼ同じようなホロスコープ
なので強弱をつけるのが難しく(^^;;)、最後は霊感山勘
占いになります。 同級生グループ客に対してものすごく
無力感が強いです西洋占星術は(笑)。
さて、そういう、「60億の人のなかの、
たった一人のあなた」 という占星術の文脈は、
「よりにもよってなぜ、わたしは今のわたし
なのか?」
「なぜ、この災厄が他の人ではなく
わたしなのか??」
「わたしはなぜこのような目に遭わねば
ならぬのか??」
「わたしはなぜこのような環境に
生まれつかねばならなかったのか??」
という、業(kama)の概念を自然と想起させますね。
つまり、業研究なくして占星術は片手落ちであり、
業研究の極北こそが仏教なのであるから、
汝の業を知りたければ仏典に当たるがよい、
ということになり、占星学を嗜好する人は仏教もともに
学ばなければ大変な欠落、邪道、外道であることに
なります。
そして業とは何か、どのようなものかを理解しな
ければ、実のところホロスコープを読むなんてことは
不可能です。
では、「業」 とは何なのでしょうか?
我々は業、という言葉をふだん気軽に使って
います。生まれつき障害があったりすると、
「前世の業でそうなった」 とか、ちょっと困難があると
「前世の業でこうなのに違いない」 とか。
親がなぜこんなクズ人間なのかと悩めば、「前世
の業かも知れない」 と思いますし、自分ばかりが
不遇なのも 「前世の業だ」 と思います。望みの仕事に
つけなくても業、病気しても業。
果ては、ニュースで悲惨な事故があると 「業」 だと
思います。こないだの池袋で母子がなくなった痛ましい
事故なども、どうして罪もない、なんの関係もない母子
があのように突然ひき殺されなければならぬのかと
考えると、 「業」 という概念はそういう不条理を説明
するには便利な概念です。
じゃあ、 「業」 とは何かということを、あなたは説明
できますか?? いったい過去、どのような悪業ゆえに
無関係な母子は、悲惨に殺されたのでしょう。説明して
ください、というと、ほぼできません。
「いや、よくはわからないけどたぶん、過去、何か
あったんだよ。そうじゃなければなぜ、あんな、罪も
関係もない人が理不尽に死ぬんだ??」
というぐらいが、せいぜい我々凡人の関の山
ではないでしょうか。かくいう私だって、それぐらい
しか語る言葉を持ちません。全地球人そんな
ものでしょう。
なのに人間は 「業」 があると信じている。
占星学に 「わたしの業を教えてください」 と
たずねる。 とてもおかしなことですね。
さて、この世でもっとも 「業(kama)」 について
研究
てきた学問は何ですか、と言われれば、
それは間違いなく仏教です。キリスト教やイスラーム
では、理不尽や不条理に対しては実に答えは簡単
です。すべて 「神の思し召し」 ですから。
ところが仏教は 「神なき宗教」 ですので、神様の
思し召しです、といって逃げてしまうことができません。
どうにか論理的に、上手く説明しなくちゃいけない。
仏教は現在の量子力学と大変同じで、むしろ量子力学
が起こることを2600年前に予言していたと考えたほうが
合点がいくくらいですが、非常に論理的であります。
ところが、この 「業(kama)」 について、仏教では、
これが宇宙に存在することは認めているものの、
業とは何かということは 「考えるな」 と言うのです。
「ミリンダ王の問い」 という、有名な仏典があります。
ギリシャ人でありながらインド北西部を治めた
メナンドロス王(ミリンダ王)が、仏教の長老ナーガセーナ師
(那先比丘)と、まさに業(kama)とは何かについて三日三晩
討論したときの記録です。
この中でナーガセーナ師は、 「業は確かにあるが、
軽々に説明できないものである」 と言っているのです。
また、お釈迦様ご本人も 「業については考えを
めぐらせてはいけない」 とおっしゃっています。
仏教の根本でありながらも 「考えるな」 と言っている。
さらに仏教はお釈迦様のお心を推量したりすることも
やめたほうがいいとされているので、それについて
深読みすることもやめなさい、とされている。
(一神教のように法律で禁じられているわけでは
ありません。 考えたって無駄だよ、程度のノリです)
ところが、仏教にまぁまぁ親しんできた私の感覚
ですと、これ、仏教によくあるレトリックといいますか、
難しいところなんです。
お釈迦様が 「やるな」 ということはほぼ、人間に
とって切実な問題だからです。
たとえば仏教の禁止事項にはなんと 「天文学」
も含まれていますし、 「医学」 も含まれています。
これらは考えても意味のないこととされ、「業」 と
同様に無駄なもの、とされるのです。
でも、人間が一番知りたいことは、自分のこと(医学)
と、自分は何者なのか(天文学)ですよね???
それを 「やるな」 という。(でも強力な法的禁止ではない)
修行者の生活でも、セックスするな。喰うな。
なんですが、セックスを否定すれば自己存在の
否定にもなるでしょう。 食を否定すれば全員死ななきゃ
ならないわけです。
お釈迦様って、「一番人間がどうにもできない
魅惑的なこと」 を全部 「やめなさい」 と言う。
でも、やめられないです。ということは、なぜ、
「考えるな」 とおっしゃったかと言えば実は、
「考えなさい」
のレトリックなんですね。私にはそうとしか
思えないのです。子どもと同じです。子どもは
「やるな!」 というほどやりたくなる。それで怪我したり
痛い目見たりして、最後は 「ああ、お父さんのいう
通りだ」 とわかるのですが、仏教の 「やるな!」 は、
むしろ、 「考えなさい」 なんだと思うんです。お父さん
の教えと同じで、
「お父さんも昔、きみのように考えていろいろやったが、
それで失くしたものもたくさんあるんだよ。だから
囚われないで、夢中になってしまわないように。人生を
無駄にさせてしまうからね」
というぐらいのニュアンスで 「考えてはなりません」 と
おっしゃっているのでしょう。 だからこれは逆に
「考えなさい」 なのです。
しかし、 「業」 は、お釈迦様くらいの悟りのレベル
になると、自由自在に読めますし、仏典では何度も
お釈迦様が、人をパッと見るだけでこの人の前世は
こうで、ああだった。だから来世はこうなる、と解き明かす
シーンが山ほど出てきます。
そして先ほどのナーガセーナ師も、同じようにミリンダ王に、
「大王よ、業は確かに存在しているが、それは
ブッダほどの悟りの境地にならなければとても
説明できません」 と言っているのですね。
ただ、業は、「意思を持ってなされた善悪の
結果を出す行為」 であると仏教では定義されて
いるようです。
(テーラワーダ協会、A・スマナサーラ、「初期仏教
ブッダが教えた業の真実) 電子書籍版より
「意思を持ってなされた」 「善悪の結果を出す行為」
ですから、意図的に善を積んだとか、意図的に悪を
成したことに対するむくい、と解釈できますね。
だから、試合でいい成績を欲しいので今日、
練習する、ということはカルマですし、やせるために
今日、食事を控えるというのもカルマです。
これを積み重ねて、何度も何度も積み重ねるとやがて
それが結実して 「試合に勝てた」 とか 「10㎏やせた」
とかになる。 実は人間の業も半分くらいはそんなもので
決まっているようです。
だから、今、ものすごくパフォーマンスがよくて、
収入もばっちり、という人は何千年何万年
何億年という転生のどこかで自分の財産を人の
ために使ったのでしょうし、今不遇だ、という人は
他から奪い取ったとか、他を苦しめたとかいうことを
しているのです。
ただ、これが、「全部」 で
ない。 業には種類が
あって、こういう、「毎日やせる努力をすればやせる」
とか、「毎日練習していたら勝てた」 とかいうのとは
別に、人類全体の業や、地球生命全体の業や、日本人
全体の業も、同時進行で受けなくちゃいけない。
たとえば痛ましい事故で罪のない子どもが死ぬ、という
ことは、車を使う現代社会ではどこかで誰かが受けて
しまう業です。
飛行機を作れば飛行機事故で死ぬという業を
受ける人が出てくる。
これはもう、人類全体の業、社会全体の業を
誰かがうけなくちゃいけない。それがなぜ
「うちの子でなければならないのか」 というところに
人間のエゴがあるわけですね。 そしてそこに囚われて
しまうと、肝心なことが見えない。肝心なこととは
「諸法無我」 という仏教の大前提であります。
諸法無我、とは、 「わたしはない」 という意味で、
実は “わたし” というものなど最初からありません、
と言っているんですよ。。。
わたしがないのだから、 「わたしの子ども」 も
いないことになる。
それではあんまりなので、だから仏教では
学びなさい、座禅しなさい、向き合いなさい
ということで、やはり修行しないとダメなんです。
おそらく業も、たぶん、修行手順に従って心身の
汚れを取り払ううちに、なんとなく見えてくるものなの
だろうと思います。
私は今、2か月間、2日断食して、2日食べて、
また2日断食して――、という生活をしていますが、
断食すると恐ろしいことに、人間は食べなくてもけっこう
生きていけるんだとわかりました。
何も食べなくても、体には体を維持しなければ、
という大変に恐ろしい、自動プログラムがあり、
なんとエサがなければ自分の体内を喰ってエネルギー
を作り出します。
人間のからだや、生まれてくるすべては 「業」 に
よって生まれてくるとされます。
私、とは、 「業そのもの」 といって良く、意思では
どうにもできません。 たとえばマクロファージに
「頼むからガンを攻撃してくれ」 とお願いしても
ダメで、免疫にガンを攻撃してほしければ、やはり
免疫たちにその言葉がわかるようにお頼みしなくちゃいけない。
断食がそのやり方の代表であるようですが、
そういう、ちゃんと伝わるやり方でないと自然界
は動いてくれませんが、伝わるやり方をすれば
嫌でもそのようになるのもまた、自然界です。
まさに 「オートメーション」 なのです。全自動プログラム
なのです。
この 「全自動プログラム」 で、 意思ではなかなか
いかんともしがたいものが 「業」。
けれども、その業は、 「意思を持ってなされた
善悪の結果を出す行為」 でもあるわけだから、
やはりすぐには結果が出なくても、無駄だったとしても、
がんにならないように生活を意思の力で積んでいくとか、
不遇でもがんばる、負けないぞ! と努力することは
大事なんですね。 これも業の半分だからです。
そして、もしかしたら、 「意思を働かせて積むカルマ」 が
やがては、全自動オートメーションシステムにさえ影響を
与えるかも知れません。
そして実はこれ、遺伝学ではもうその通りなのです。
たとえばすぐに切れたり、怒る人っていますよね??
虐待は、親から子へ、子から孫へ遺伝する
とも言われます。 天皇家などは恐ろしいことに
2500年以上も前から万系一世で、血脈が続いて
きたために、実は天皇家はみんなものすごい天才
シャーマンで、昭和天皇や明治天皇などは高度な
神霊と感応できると言われています。何千年もシャーマン
をしてきたので、そういう特殊遺伝子が受け継がれている
のだ、と。。。 平成天皇も、あのおだやかな物腰を
拝見いたしますと、人目で万民を説得するオーラがあり、
ただものではない感じがします。
そういうのも、2000年以上積んできたのだから、
生半可なことではありません。
虐待も、母にぶたれた子が、 「わたしの代でこんな
悲劇は終わらせる!」 と決意し、子どもを殴らない、
おだやかな日々を1年、2年と積み続けていけば、
実は怒りやすさの遺伝子が弱くなり、温厚な遺伝子が
発現してくることは医学的・生物学的に証明されて
いるのです。
うちは音楽家の家系じゃないといっても、ある世代で
音楽に親しみ、それを積んでいくとその家系には
音楽家が増える。
だから、努力して業を変えなさい、とお釈迦様は
いうのですね。そのための 「鏡」 として、自分自身
の今の努力を見せるのが 「占星学」 なのだろうと
思います。
そういう指導ができない占いになどなんの
意味もありません。
転生 満員でも、新聞バーンとお広げください。
前回からのつづきでもあるのですが、
転生するときに記憶を消される焼却炉に入ったりして
シュールな体験をしたあとに、
とても美しい草原に行きまして、
そこでは、緑の鳥型宇宙人が私を待っていて、
「仲間」なんだそうです。
そして私の姿も、その緑の鳥型宇宙人と同じものになってました。
こんな感じなんですよ。
もうね、細かい羽毛を描くのが途中でめんどくさくなってしまいましたw
それでその仲間が説明してくるのですけど、
ポイントは「基本的に耳で飛ぶ」
のだそうです。
えー!そんな耳でなんか、飛べるものなのかい??
と驚いたのですけども、
実際に飛んでみると、
「あー・・そういえば、こうやって、両サイドのコメカミのところで、バランス調整して飛ぶんだったよなぁ・・」
と、記憶を取り戻したんですよ。
確かに私はこの緑の鳥型宇宙人をやってたことがあるのです。
それで、その美しい草原と、美しい空を、
ギュンギュン飛び回り、
「わたしは一体なんなんだ(笑)」
と思ったところで目が覚めました。
—–
アセンションの話から始まって、記憶を消す焼却炉につづき、緑の鳥型宇宙人で終わるという、
終わり方が特になんなんだ(笑)という感じですがね。
まとめますと、
本来は誰もがこの宇宙で自由な存在で、それで地球にも来たのだけど、
本来の姿を思い出せなくなってるから、「還れない」
のかと思います。
本来の姿というのは、宇宙での本来の姿です。
※宇宙での自分の姿というのは色々あります。
(過去世が色々あるのと同じ感覚)
あー、自分は宇宙でこういう存在だったんだなぁ・・って感じです。
既存の概念から脱却して、
宇宙での自分の姿を思い出せた人は、
地球の輪廻から卒業できる可能性があるのだろうけど、
まだ居たいならば居ればいいようでして、選択のようです。
本来の姿を思い出せなくなってるから還れないというのは、
本来の姿の時の「周波数」に戻れれば、
還れるという理屈なのですが、
普通に寿命を終えたら、
宇宙に還るならば、還るか、残るかを選択するのではないかなと。
ホント、どっちでもいいんでしょうけどね。
あと、古い時代に主にプレアデス系から大量に地球に来た魂たちが、
そろそろ還る時期にきていて、でもそれを忘れてしまってる魂が多いので、
そろそろ思い出して還りますよー!と、「還る誘導」をしていたのかなと思います。
私も係員として働いてたやつです。
アセンションのゲートに案内していたと書いてましたが、
地球のアセンションとは関係なくて、
宇宙に還るゲート(まぁこれも個人のアセンションですが)に案内していたのかと。
ややこしくてすいません。
あと私に関しては、あの焼却炉をモロではないけど、体験したじゃないですか~。
アレは知ってて入るのはもう嫌(笑)
なので、もう地球はいいや・・と思わざるを得なくなってます。
あと、私自身 焼かれてもあまり記憶を無くさないタイプかと感じたもので、
そうすると、地球で輪廻する意味があまりないなーとも思いましたし、
さらに、地球で輪廻する上で、
縁(カルマ)がある人が、もう、ほんと少ないみたいでして、
ほら、焼却炉から出て、階段上っていって、縁のある関係者が全然出てこなかったじゃないですか。
なのでねー、私は宇宙視点だと、地球では縁がある人がそんなにもういないとも感じたのですよ。
もっと仲間がたくさんいる星があるようでして、
それがとりあえずプレアデスとかシリウスなのでしょうけどねぇ。
—–
上の絵の緑の鳥型宇宙人は、どこの星から来たのでしょー?と考えると、
こういうのは、シリウス系かなぁ~。
動物型の宇宙人はたくさんおりますよね。
みんな高度な知的生命体なのですよ。
地球もいろいろな次元があるじゃないですか。
その次元の細やかで自然が豊かなところに、
緑の鳥型宇宙人が、遊びに来てる・・ということのようです。
遊びに来れるものなのですねぇ。UFOが来るのと同じ感覚なのかな。
この緑の鳥型宇宙人になって、飛び回ってみると、
すごいスピードで飛べるのですがね。
リアルの私は高所恐怖症で、
数々の過去世で高所から落ちて死んでるようなのですが、
まさか、「高所から落ちて死ぬ」という根本がこの鳥型宇宙人に起因してるのか?とも思いました。
高所から落ちて死ぬという体験がしてみたかった?
でもそれが変な癖みたいになってしまった?
ということなんですけどね~。
もうやめたい(笑)
その件は自分でレトリーバルしてるのですがね。
・・と色々書きましたが、
こういう体験をしてみると、
結局は、今の人生で今の自分を楽しむしかないなぁと思います。
地球っぽい俗っぽさも貴重な体験ですよねー。
あとは、旅行を楽しんだりとか、自然を楽しんだりとかですかね。
非物質の体験で 今の生活を大事にしようと
考えさせられました。残り少ない地球の体験かもしれませんのでね。
おわり
転生 関連ツイート
お時間ありましたら、
よろしく御願い致します\(_ _)
https://t…
モーモールルギャバンが来月リリースするシングルの表題曲【消えて】MVをご紹介 https://t.co/Vxvz1PmqPn
インドの火葬場から着想を得て、「日常と輪廻転生」をテーマに制作した楽曲。バンドの本質が表れているのではないでしょうか。