吹奏楽情報がイッパイ！

体温計の小気味よい電子音が、薄暗い都内のマンションの一室に悲しげに響く。風邪気味の時に医者にかかったら、風邪になる、という噂話なのか、よくある話なのか分からないものが現実化した、というあたりだろうか。昨日の昼下がりから、妙に背筋に寒気がすると感じていた。ただ、健康だけが取り柄で２６年間生きてきた涼子にとって、その感覚はここ１０年経験していないものだった。帰りのホームルームでは生徒に心配される失態を犯し、放課後の吹奏楽の部活動は学年主任の村上先生に視て貰うようにお願いをして、病院に行ったのだった。平熱が３５℃台の涼子にとって、３８℃は未踏の領域と言ってもよく、得体の知れない不安と一夜を共にしたのであった。

「どうせならイケメンと熱い一夜を過ごしたかったな。」

涼子には久しく男がいない。出来ないのではなく、作らないのだと頑なに言い張ってきて早４年が経つ。しかし、そろそろ本格的に作れないの方の女子なのかもしれない、と思うには丁度良い機会だった。

教師になって初めて、涼子は仕事を休んだ。社会人になって初めて観る朝８時からのニュース番組では、超人気女子アナが観る者すべてを魅了する笑顔を振りまいで元気いっぱいの朝の挨拶をしていた。それは下心を持つ男だけに限らず、女までも笑顔にしてしまう、その嫌らしさの欠片も感じさせない魔性のものだった。ぽっちゃりした体型であるにも関わらず、人気女子アナ女王に君臨し続けるその実力をまざまざと見せつけられたせいか、涼子はリモコンを握りしめて最近新調した４Kテレビをぼうっと見つめていた。その超人気女子アナはサムライブルーの、八咫烏が胸に止まっているユニフォームを可愛らしくだぼっと身に纏っていた。まるで彼氏の家で、一回り大きい彼氏のTシャツを貸してもらっている姿を朝のこの時間に見せつけられているような気がしたが、それでもやはり、嫌悪感を抱かせない、そんな不思議な存在だった。真っ青なユニフォームとは対照的な紅潮した面持ちで、昨日の日本代表の奇跡の勝利を伝えている。

「目覚めもそりゃスッキリだわ。こんなに楽しそうに仕事している、可愛い子が毎日見られたらね。」

ふと体温計に目をやると、３７．５℃と表示されていた。朝６時に測った時と何ら変化はない。ただ、責任感の強い涼子は絶対に休むまいと思い枕元のスマホで学校に電話を掛けた。堅い意志を持って電話をしたはずだったが、発熱に耐性の無い涼子の身体は怠さを騙しきることは難しく、学年主任からの優しい一声により、今日はお休みを頂戴する運びになった、という訳である。

教師の仕事に土日祝日などは関係が無い。平日は勿論授業があるし、部活の顧問もしているから、土日は遠征などもある。その宿泊中に今後行う予定の教材研究を実施しつつ、体育祭や文化祭の構成も練っていく。しかも今年は初めて３年生の担任を任されたものだから、受験に向けた、生徒一人一人のフォローの為、プロフィールづくりにも手を抜くことはできない。４年目の涼子にとっては精神的にも肉体的にもこたえる仕事となっていた。自分が一番に望んだ道では無かったから、教師冥利に尽きる仕事が増える度に、何か大切なも�
�が失われていくような感覚を抱いていた。

進学率の高くない高校で、可もなく不可もない成績だった。付き合っていた彼がサッカー部だったから、２年の時にマネージャーになったのだった。それを言い訳に３年の７月まで受験勉強をしなかった。ギリギリよく頑張ったね、と言われるレベルの大学に何とか駆け込み乗車することができたのだった。

それなりの大学生活だった。身長は１６０センチそこそこだったが、容姿は整っており、大学１年の時に渋谷で読者モデルにスカウトされて以来、色々な雑誌に載せてもらった。だから将来はCAとか女子アナとかそういう職業に就けるといいなぁというファンシーで淡い桃色に染まった、浮ついた気持ちで就職活動をしていた。それ以外の会社に入るつもりもなかったし、涼子自身、常に何かを同時並行するタイプの思考だったから、親に頼み込んで１年間ほど英国に留学をさせてもらっていた。また、母親からの勧めであって、涼子は遊ぶ時間が少なくなることが嫌で渋々だったのだが、何かの為にと英語の教師免許も取っていた。

結果が今である。留学をしたからと言って、強みがあるわけではなく、涼子以外に容姿端麗で、頭脳明晰で、挙句の果てに性格美人という考えられないハイスペックな女はこの東京には数え切れないほど存在した、そういうことだった。英語を話せるのは当たり前になりつつある。頭では分かっていたが、心のどこかでまだ、いけるクチ、だと思っていたのであろう、痛感するのはそう遅くなかった。

「本気であの時アナウンサーを目指していたら、客室添乗員を目指していたら、人生変わってたんだろうな・・・。はぁ。あたし、何やってんだろ。」

身体の怠さと、つい先ほど飲んだばかりの、病院から処方された白い錠剤が溶け出す感覚とが混ざり合い、涼子は微睡みの中に入り込み、いつしか眠りについた。

気付くと午後２時を回っていた。かなり深い眠りについたようで、身体もどこか軽くなっていた。

「明日は学校行けそうだな・・・。」

そう思いつつ、もう一日休んじゃおうかな、とも思っていた。何しろ初めての経験、最初はみんなが働いている中自分だけがぐうたら寝ているのは申し訳ないと感じていたのだが、人間�
��度甘い蜜を吸ってしまうと戻れなくなるものなのだとつくづく実感する。アダムとイブが禁断の果実を食べてしまったのも頷ける。自分の責任感だけで今までやってきた涼子にとって、この差は大きかった。教師になって、何かを成し遂げたい、そういう強い使命を持ち合わせている訳ではない。教師が誰しもそんな崇高な倫理観を備えている訳ではない。

「確か今日、里美仕事休みだったはずだな。久々に電話してみようかな。」

里美とは大学１年の時にインカレサークルで知り合った。インカレサークルというのは、特定の大学の生徒のみで構成されるサークルとは異なり、２，３校の、多いものでは７校程度の大学に在籍する生徒が交流をするサークルのことである。里美は日本で知らない人は恐らくいないであろう私学に在籍している、少し人とは異なった視点を持つ女性だった。涼子にとって、高校までに出会ったことのない独特な世界観を持つ里美はいつも新鮮な気づきを与えてくれる、そんな存在であった。

「なに、いきなりこんな時間に。さては遂に社会人になってあの有名な、さぼり癖が発症したのか！」

「いやいや、違うの。初めて体調崩して仕事を休んだの。って、ちょっと、さっきの何なの？あの有名な、って。いつそんなこ・・・。」

久々の電話で話は尽きない。里美は来月から仕事の関係でイタリアに長期出張が決まったらしい。アパレル関係の総合職でバリバリと働いている彼女の魅力をより一層引き立てる国だと、涼子は一人納得していた。芸術の国、お洒落な国、イタリア。紳士を見つけたい・・・なんてそんな妄想をちょっとばかし楽しんだところで里美が突然、

「涼子に見てほしいブログがあるんだ。」

そういった後、LINEでURLが送られてきた。

「え、これ誰？イタリア？え？男できたの？あんた？え、ずっと一緒だと思ってたのに！え、抜け駆け？」

「違う違う、確かにこれはイタリアで撮った写真らしいんだけど、なんか、鼻につく写真だよね（笑）。あ、これは大学の時の友達ね。マーケティング論の授業のグループワークで一緒になってから、ちょこちょこ連絡取るようになった感じの子。独特な感じなんだよね、体育会なのに、全然喋んないし。イヤホン付けっぱなしで教室入ってきて、授業後には教室出る前からイヤホン付けてたし（笑）。でもまぁ考え方は結構面白いから。」

「ふぅん。まつもとくん？銀行辞めちゃうんだ。」

２時間くらい話したであろう電話を終え、涼子のスマホは汗をかきそうなほど熱くなっていた。人間が熱を出すと倒れるように、機械も熱を出すと働かなくなる。あんたも人間臭いじゃない、と心の中で呟く。

夢を叶えられる人間はごく僅かで、夢を見た人全てがその野心を満たすことが出来ないことは涼子も同感だった。小さい時から常に夢を持つこと、目標に向かって頑張ること、結果ではなく仮定が大切なんだと、色んな大人から言われてきた。いつしか私もそれを伝える側になった。何も考えずに伝えていた。

夢を追求する覚悟はそんなに甘くない。夢は希望を大きくしていくと同時に、打ち砕かれた時の衝撃も増大させる。人類が月に到達するまでに、一体何機のスペースシャトルが打ち上げられては、否、打ちあがる前に爆発したのだろうか。伝える側にも責任がある。大事なことは選択させるということなのではないだろうか。決断させる力を身に付けさせてあげることなのではないか。ふと涼子はそう考えた。決断は文字通り、決めて断つのである。何かを得るためには、何かを捨てる、求めるものと引き換えに犠牲にするものを、何度も自分の頭で考えて、何度も悩んで、何度も泣いて、何度も自分に問いかけて、何度も仲間とぶつかって、決めていくその力が必要になるのではないか。

夢破れた時に、孤独になった時に、独りで生きていける強さ。それでもまた次の一歩を踏み出せる強さと勇気を与えてあげることが出来るのなら。正しいことなのかはわからないけど、不景気な日本と、志望した業界に入れなかったから公務員についたという、教師になった消極的な理由が示すように、ちゃんと保険をかけておく、人生の準備をしておく必要性ということも教えてあげられるのではないか。だから勉強をしておく必要があるのよ、と。自分が自由に夢を描いても、そのあと、自分でまた道を選び直せるように、と。

「大人になった、あなたに聞きたい。

あなたの夢は、何ですか？」

松本の問いかけは涼子の身体の中心に居座り続けていた。

涼子は先日買った新しいパンプスを履く。キュッとした足首が余計に際立った。スッと立ち上がる。一日籠っていた、その病原菌を含んだ嫌な空気を全て外に出すような、それほどの勢いで力強く玄関のドアを開けた。一日ぶりに見るその朝の空は残念ながら晴天ではなく、梅雨の時期のあのどんよりとした空だった。梅雨はいつか明ける。梅雨の後には過酷な夏が待っている。雲一つ無い青空がやって来る。無限の可能性を秘めた高校生と全力で向き合う�
��意を胸にした涼子にとって天気など関係は無かった。胸を張って歩き出す。４０人の太陽と共に、私たちの教室を、青く染め上げていく、ただそれだけのことなのだから。